りとる まぬえら傳

江戸は昔、五代将軍徳川綱吉公のもと、元禄「ばぶる」華やかなりし頃、江戸城西ノ丸お膝元、赤坂御門を下りたる元赤坂代地、勘定奉行大岡五郎左衛門重清お屋敷裏手、一ツ木龍泉寺ご門前に「南蛮居酒屋」出現す。

その謂はれ定かならねど、風説によれば、大森村に居を構へ、浮世絵版木商手代を正業とせし中田光助、日本橋南町の茶屋の亭主齋藤勇治郎などが、それぞれ互いの商いに飽き足らず、示し合わせて開業に至ると傳ふ。

この兩人なかなかの才覺ありて、これを唯の居酒屋とせず、土間に南蛮ござを敷きつめたる上に、南蛮琴、南蛮琵琶、南蛮太鼓などを備え、時に歌留多屋の新井真吉などを助っ人に頼み、互いにこれらを打ち鳴らしつつ、ぎやまんに注ぎし南蛮どぶろくを顧客に勧め、南蛮小唄などをうならせたるところ、すぐれて好評を博せり。 あまつさえ、北国の果て、かつては蝦夷の地でありし、出羽の国佐竹藩ご領地より「せつ」なる娘をかどわかし、舶来の珍獣とされたぺんぐゐんに似たる衣装などまとわせ、愛敬をふりまかせれば、顧客ますます集まりて繁盛す。

惜しむらくは、大番頭たるべき中田光助、音曲を奏でて顧客以上に自ら悦楽し過ごせば「ぜにかね」の勘定に頓着なし。 止むなく多摩川のほとり六郷より、白眉の若衆大谷某が馳せ参じ、「嫁とり」を犠牲にして帳場を預かり、斯くして事無きを得た、との書き付け残れり。

因みに、ここに相集いし物好きなる顧客には、日比谷御門前で大旅籠を営む犬丸某、写影箱卸の大番頭などをつとめたる大伴某とそのお内儀、えれき紙芝居屋で南蛮尺八をよくする白石某、その商売仇宮木某、人入れ嫁業の福居某、瓦版書きの川村某とご内儀、歌舞伎のたにまち澤田某、算盤商手代で門番が副業の杉村某、呉服屋の主人で南蛮太鼓が巧みな大橋某とご内儀、武蔵の国一帶の簡便雑貨屋を仕切る清田某、南蛮渡来品の荷受け商で南蛮太鼓の永井某、車寅次郎ならぬ長尾某などなど。後に、これら面々に闖入したるは大寺子屋の若山某、「南蛮小唄如是我聞」など著し悦にいる。而して未だ學成り難しとか。

やや年増なれど今猶そこそこに色香残りし、みや、かず、あき、さち、みよ等も喜び来たりて媚を賣るに及ぶも、ああ悲しむべし、これら女人衆、徒然なるままに「いかず後家」とよばれる身と成れリ。憐れと言うもなかなか愚かなリ。

、甚だしきは武蔵の國にあらず、下總の在、相模の在から早駕籠、さては早馬をとばし駈けつけんとする鈴木某、上山某なども有りて、夜な夜な丑三つ刻になるも面白可笑しく騒ぎおりたり。

かように千客萬来、千里萬里のかなたより顧客来たるため、「萬里遠来」「まんりえんらい」「まんりえんら」・・・などと唱えおる内に、「り」なる音の収まり悪しとし、「り」を取り、「り取る」「まんぬえら」、即ち「りとる まぬえら」なる屋号と成りきとか。

斯かる風情の中、顧客ら圖にのりて、神佛のおそれも知らず、五百もの桟敷をしつらえし大旅籠の大廣間を借り上げ、西洋小唄大宴會をば催すに至れり。

されど、将軍側用人柳澤吉保殿、實権を握りたるに至り、その放漫幕政ゆえに、「ばぶる」無残にはじけ、客足やや翳りの兆し見ゆれば、お得意樣各位にはくれぐれも宜しくご来駕の程を御願い奉りたき時節と知れリ。

まぬえらの史實つぶさに側見せる金銀商英之介之を記す


注:この傑作にして難解な文書は江戸あるいは明治時代に書かれたものではありません。90年代半ば平成の御代になって鈴木英夫氏によって書かれたものです。文中には「いかず後家」などという件(くだり)もありますが、その後、目出度くゴールインされたメンバーも複数人あることを謹んで付記させていただきます。

また、マヌエラという店名の由来は、戦前から戦時中、上海のフランス租界、米英租界で国籍不詳のダンサーとして華々しく上海社交界を席巻したミステリアスなManuelaであります。

この話は ⇒ マヌエラの由来